安田善次郎(安田財閥)

安田善次郎(やすだぜんじろう)氏は、明冶・大正期に活躍した実業家で、安田財閥の創設者(1838/11/25-1921/9/28)です。越中国(富山県)出身で、若くして江戸に出て玩具問屋や両替商兼鰹節商などで奉公した後、両替商として独立し、幕末維新の動乱期において、当時リスクが非常に高かった幕府の古金銀回収、新政府の太政官札の引受け、政府公債の売買などで巨富を築きました。そして、両替商として成功後、銀行や生命保険会社、損害保険会社などを創立し、金融資本中心の安田財閥を一代で構築しました。

天職を金融業(銀行家)とし、自分のビジネスの他に、創立期の日本銀行の理事として活躍し、また手形交換所の創設や経営危機に陥った銀行の救済なども行い、近代日本の金融経済の発展に大きく貢献しました。なお、80代になっても元気で事業意欲が旺盛な中、1921年(大正10年)に神奈川県大磯の別荘で国粋主義者の男に刺殺され、82歳で非業の死を遂げました。

安田善次郎の基本情報

安田善次郎氏(幼名:岩次郎)は、1838年に越中国(現:富山県富山市)の下級士族の家に生まれました。父の善悦が35歳頃に富山藩士の権利株を購入して最下級の武士の身分を得たものの生活は貧困で、現実には半農半士であり、岩次郎は8歳頃から農作業を手伝いました。また、12歳頃から昼間は農作業の他に野菜や生花の行商に出て、さらに夜は写本の内職なども行い、家計を助けました。

岩次郎が15歳の時、大坂の両替商の手代が乗った駕籠を藩の勘定奉行が丁重に迎える様子を見て、将来、低い身分の藩士に甘んじるより、商売で「千両分限者(財産家)」を目指そうと決意しました。地元での成功は困難であったことから、江戸での立身出世を志し、二回の無断の出奔(17歳:途中で引き返す、19歳:江戸で少し奉公後に戻る)の後、1858年(20歳の時)に親から許可されて上京しました(名前を「忠兵衛」に改名)。

江戸で商売をするには地理人情を十分に知らなければと思い、まずは日本橋の玩具問屋で奉公(玩具の行商)をしました。一年半の玩具の行商の後、1860年に日本橋小舟町に新たに開店した銭両替商兼鰹節商の広田屋林之助商店(通称:広林)で奉公を始め、読み・書き・算盤の能力の優れた忠兵衛は、複雑な両替業務に関しての知識や技量を短期間に会得し、主人や同業者の信用を獲得しました。なお、忠兵衛の学識については、5年間の寺小屋の学業と元来の勉強(読書習字)好きにより形成されました。

1863年(26歳の時)に忠兵衛は広林を辞め、日本橋葺屋町裏通りの棟割長屋に借宅して独立し、小舟町の辻で戸板にスルメを並べて売りながら小銭の両替を始めました。そして、この商売で資金を貯めた後、翌年の1864年に日本橋人形町通り乗物町に家屋を借りて「安田屋」を開店し、両替の他に乾物屋として海苔や鰹節、砂糖などの商いを始め、後の安田財閥を構築する大実業家としての第一歩を踏み出しました(名前を「善次郎」に改名)。

生没 1838年11月25日-1921年9月28日(享年82歳)
出身 富山県富山市
就職 丸屋(海苔・鰹節)で奉公・・・1857年
玩具問屋(玩具行商)で奉公・・・1858年
広林(銭両替商兼鰹節商)で奉公・・・1860年
起業 安田屋を開店・・・1864年
著書 意志の力、成業の要素、富之礎 他

安田善次郎の事業年表

1864年に開店した「安田屋」は、顧客本位の商いにより信頼を得て繁盛し、1866年には日本橋小舟町に土蔵付きの店舗兼家屋を購入して移転し、安田屋から「安田商店」と改称の上、事業を両替専業にしました(1865年に善次郎氏の所持金は千両に到達し、早くも「千両分限者」の夢を実現した)。

世は幕末で、治安の悪化から同業者の休業や閉店が相次ぐ中でも積極的に営業し、当時、幕府の古金銀回収(質の高い旧金貨の回収と質の低い新金貨の引換の業務)で引き受け手がいない中、金銀鑑定力に定評があった新興の銭両替商の安田商店が古金銀回収取扱方(御用ビジネス)を一手に引き受けることになり、大きな利益を得ました。

明治政府が樹立された後にも善次郎氏は御用ビジネスに商機を見出し、当時、誰もがリスクが高くて躊躇していた、額面割れの「太政官札(金札)」を大量に引き取り、見込み通りに正貨と等価になったことで莫大な利益を得ました。さらに、財政難の中、年々発行額が増え続け、引き受け手が少なかった「政府公債」についても有利な投資対象と見なし、秩禄公債を中心に売買を行い、莫大な利益を得ました。

開店以来、安田商店は銭両替商であったため、業務が制限されていましたが、1872年に貸付や預り金も業として行える本両替商の免許を受けたことで、有力な為替方の間に割り込む体制が整いました。そして、公債の売買を行うと公金の取扱いも増えるというメリットを発見し、官庁の公金取引を拡大し、金融業者としての地位を固めると共に、近代的な銀行への脱皮を図っていきました。

1876年に「第三国立銀行」の設立認可を受け、1880年に安田商店の金融業務を分離独立させる形で「安田銀行」を発足させたほか、1882年には日本銀行の設立にも参画し、善次郎氏は理事に就任して銀行家としての基盤を確立しました。また、1880年に安田生命の前身である「共済五百名社」、1888年に安田火災の前身である「東京火災保険」、1893年に安田火災の前身である「帝国海上火災保険」を設立して保険業に進出し、さらに1925年に「共済信託(1926年に安田信託に商号変更)」を設立し、金融財閥としての体裁を整えました。

生涯を通じて、善次郎氏は銀行家としての活動が中心でしたが、一方で事業家としても活動しており、銀行救済の中で譲り受けた北海道釧路の硫黄鉱山事業については経営的に大きな成功を収め、安田家のその後の多角的事業経営の資金源となったそうです。

20-29歳 1858年:玩具問屋で奉公
1860年:銭両替商兼鰹節商で奉公
1863年:借宅して独立(スルメ販売と小銭両替)
1864年:安田屋を開店(両替と乾物)
1866年:安田商店に改称(両替専業)
30-39歳 1872年:本両替商の免許を取得
1876年:第三国立銀行の設立認可
40-49歳 1880年:安田銀行を発足、共済五百名社を設立
1882年:日本銀行の設立に参画(理事)
1887年:保善社を設立(財閥の要)
1888年:東京火災保険を設立
50-59歳 1893年:帝国海上火災保険を設立
1896年:東京建物を設立
1897年:安田製釘所を設立
60-69歳 1899年:安田商事を設立
1907年:帝国製麻を設立
70歳- 1912年:保善社を合名会社に改組
1925年:共済信託を設立、安田保善社に改称

安田善次郎の人物像と言葉

安田善次郎氏は「天下一のしまり屋」として知られましたが、事業家としての先見性や度胸、手腕などを見込んだ人物には支援を惜しみませんでした(中でも同郷の浅野総一郎氏に対しては、セメントや埋立築港、海運などの近代事業に多額の融資をした)。また、「勤倹力行」を生涯の座右の銘としており、日常において「陰徳(人に知られないようにひそかにする善行)を積む」ことを良しとしており、無定見な寄付の依頼を断ることも多く、世間的には「ケチ」や「守銭奴」というイメージが広く定着し、誤解されることも多かったようです。(晩年には、日比谷公会堂や東京大学講堂(安田講堂)など独自の社会事業への構想を持っており、それらは死後に実現した)

一代でゼロから日本の金融業における最大の成功者(銀行王)となり、また善次郎氏が亡くなった1921年(大正10年)当時の資産は2億円を超えていたとも言われ、それは国家予算(約16億円)の8分の1に及び、日本史上においても「空前の資産家」でしたが、一生涯、勤勉と質素・倹約を続けたそうです。

・勤なるとともに倹なれ、倹なるとともに勤なれ。

・勤倹貯蓄実行の骨髄は、自己の欲望を抑制し、己に克つことにある。

・日常の細事を大切に処理しないで、どうして物事が成功するだろうか。

・私にはなんら人に勝れた学問もない、才知もない、技能もないものではあるけれども、ただ克己堅忍の意志力を修養した一点に於ては、決して人に負けないと信じている。

・何を志すにしろ、順序正しく進むことが一番である。これを無視すると、いわゆる豪傑肌に陥り、大言壮語をこととし、日常の些事をかえりみなくなる。

・これはよいと思った事は決してそのままにせず、必ず実行してみる。また、自分の慣習上、悪いと心づいた事は必ず禁断する。おそらくは人間の貧富貴賎の岐れ目はここであると思う。

・意思の弱き人は、その行為常に不文律にして、精神快活ならず、したがって自己の情欲を制して、勤倹貯蓄を成すの勇なし。

・意志の弱い人は、取り引きの間、始終人の後に立って、いわゆる「ひけ(おくれ)」を取るものである。このような人は情実にこだわって、常に損害を招く。

・一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何。満腹の熱心さと誠実さを捧げ、その事実と共にたおれる覚悟でかかる人であれば十分。独立心と克己心の強弱が人の貧富の岐路となる。

・一旦奮然と志を決した以上は、如何なる困難障害に遭遇するも決してその志を翻さず、飽くまで不屈不撓の精神で勇往邁進すること、これ古来大事業を成就して偉名を成せる全ての人物の共通の特徴である。

・人生は一歩一歩順を追って前進す。世路は平々坦々たるものにあらずといえども、勇往邁進すれば、必ず成功の彼岸に達すべし。勤勉、努力、節倹、貯蓄、一日も怠るべからず。

安田善次郎の関わった会社

安田善次郎氏は、一代で四大財閥の一つである「安田財閥」を構築し、第三国立銀行と安田銀行の二行を中核として多くの銀行を支配下に収め、また生命保険会社や損害保険会社、信託会社なども設立し、日本の金融界に確固たる地位を築きました。1887年に安田一族の財産・事業管理を目的とした私盟組織の「保善社(現・安田不動産)」を設立して財閥の要とし、1912年に合名会社の「保善社(1925年に安田保善社と改称)」に改組し、同社を統轄機関(持株会社)として多角的事業に進出しました。

安田財閥は、他の四大財閥(三井、三菱、住友)とは異なり、金融業を中心とした財閥であり、独自の有力な事業会社を持たなかったですが、浅野財閥や森コンツェルンとは金融的に密接に結ばれていました。なお、第二次世界大戦後は、持株会社である安田保善社の解散によって解体しましたが、安田銀行の後身である富士銀行を中心として、有力な企業集団の「芙蓉グループ」を形成しました。

持株会社 安田保善社(現・安田不動産)
金融関連 第三国立銀行(安田銀行に吸収)、安田銀行(現・みずほ銀行)、共済五百名社(現・明治安田生命)、東京火災保険(現・損保ジャパン)、帝国海上火災保険(現・損保ジャパン)、共済信託(現・みずほ信託)他
事業関連 東京建物、安田製釘所(現・安田工業)、安田商事(消滅)、帝国製麻(現・帝国繊維)他