江崎利一(江崎グリコ)

江崎利一(えざきりいち)氏は、東証一部に上場する、大手製菓会社の江崎グリコを創業した実業家(1882/12/23-1980/2/2)です。佐賀県出身で、19歳の時に父の死により家業の薬種業を引き継ぎ、30代前半で自分で考案したビン詰葡萄酒販売業で大きな成功を収め、一財産を築きました。30代後半になって、地元の早津江川の河口近くで牡蠣(カキ)の煮汁に出会い、それにグリコーゲンが含まれていることを発見し、試行錯誤の末、キャラメルにグリコーゲンを入れた「栄養菓子グリコ」を開発しました。

39歳の時に大阪に出て、栄養菓子事業を行う「江崎商店(現:江崎グリコ)」を創業し、菓子業界では何ひとつ経験もない中、独自のアイデア(おまけ等)や広告宣伝、営業努力などでグリコを大ヒット商品にしました。1933年には酵母入りビスケットの「ビスコ」を発売し、大ヒットとなりさらに成功しました。しかしながら、第二次世界大戦が終わった63歳の時に、空襲で工場が全焼して壊滅的な打撃を受けました。そして、戦後は焼け跡から再出発となりましたが、会社を何とか立て直し、その後、90代まで会社の発展に尽力し、一代で日本有数の製菓会社にしました。

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江崎利一の基本情報

江崎利一氏は、1882年に佐賀県神埼郡蓮池村(現:佐賀県佐賀市蓮池町)で、薬種業を営む父・清七、母・タツの間に6人兄弟の長男として生まれました。実家は裕福でなかったため、子どもの頃から家の手伝い(仕事)をさせられました。15歳で高等小学校を卒業後は、家業の薬種業に従事したほか、塩売りや登記代書業も行い、家計を助けました。19歳で父が亡くなると家業を継ぐと共に、家族の全責任を負い、より一層商売に励みました。

20代は、家業の薬種業を頑張り、父の残した借金を全部返済し、その間、日露戦争に看護兵としても従軍しました(戦功により勲八等白色桐葉章を授かり、慰労金を受け取った)。そして、30代では、薬種業(主に漢方薬)の他に、自分で考案したビン詰葡萄酒販売業で九州でトップクラスになるなど成功を収め、「人のやっていないことをする、これが商売には大切だ」と考えるようになり、近い将来、大阪に進出することを目指しました。

そして、30代後半に地元で牡蠣の煮汁に出会い、それに栄養価の高いグリコーゲンが含まれていることを発見して「グリコーゲンの事業化」を思いつき、佐賀の実業家から日本の大実業家に飛躍する大きな転機となりました。

生没 1882年12月23日-1980年2月2日(享年97歳)
出身 佐賀県
学歴 芙蓉高等小学校
起業 家業(薬種業)に従事・・・15歳
江崎商店(現・江崎グリコ)の設立・・・40歳
著書 商道ひとすじの記

江崎利一の事業年表

江崎利一氏は、30代まで佐賀で家業に従事して一財産を築いた後、40代目前の39歳で大阪に出て未知の製菓業界に新規参入し、以降、半世紀で日本有数の製菓会社にしました。

■佐賀での家業時代

1901年(19歳の時)に父・清七が死去し、家業(薬種業)を継ぎました。以降、地道に商売に励む中、1907年(25歳の時)に念願だった商売の都・大阪へ見物に出掛け、道修町で大量仕入れの利幅の大きさに魅入られ、それ以来、定期的に大阪に出向き、格安品の仕入れに精を出しました(大阪での薬の仕入れで利益を得たことから「商売は面白い、工夫次第で色々なところにチャンスがある」と感じ、ますます熱心に商売に取り組んだ)。

30代も薬種業(主に漢方薬)の商売を行う中、当時流行していた葡萄酒に着目し、1915年に樽で葡萄酒を仕入れて空瓶に詰め替えて販売する「ビン詰葡萄酒販売業」を開始し、これが大当たりして九州でトップクラスになり、一財産を築きました(当初は国内から仕入れていたが、事業が拡大していく中で外国から直輸入するようになった)。なお、1920年に恐慌が起きましたが、利一氏は不況の予感から縮小均衡を図っていたため、ほとんど無傷だったそうです。

30代後半まで、地元(佐賀)での商売が順調に推移する中、1919年のある日、行商中に有明海の近くで漁師たちが干牡蠣作りで牡蠣を大釜で煮ていているのを偶然見かけました。過去に読んだ薬業新聞の記事を思い出し、牡蠣の煮汁にグリコーゲンが含まれているかもしれないと思い、漁師に煮汁を分けてもらってその分析を九州帝国大学付属医院に依頼したところ、多量のグリコーゲンが含まれているほか、カルシウムや鉄分も含まれていることが判りました。

このグリコーゲンを使って、何か社会に貢献できる事業ができないかと思案していた頃、利一氏の長男が腸チフスにかかってしまいました。衰弱して食事も喉を通らない状態を見て、医者と相談した上で牡蠣エキスを少しずつ与えたところ、無事に体力を回復し病から復活することができました。長男の治療に役だったグリコーゲンの効用を実感し、当初は薬にしようと考えていましたが、予防こそ治療に勝るとの大学の先生の助言から、グリコーゲンを使って子供たちが元気で健康になる事業を行おうと決意しました。

そして、当時の代表的な菓子であったキャラメルにグリコーゲンを入れることにし、これが創業時の商品「栄養菓子グリコ」の誕生となりました。

■大阪での実業家時代

1921年(39歳の時)に利一氏は家族と共に大阪へ移り住み、江崎商店(現:江崎グリコ)を設立し、栄養菓子グリコの試験販売を始めました。当時、第一次世界大戦後の恐慌時期で、50社余りのキャラメル業者が10社あまりに激減し、大手の先行二社(森永、明治)が快進撃を続けていた中、グリコはキャラメルではなく栄養菓子という差別化を図ったものの全く売れませんでした。

極めて苦しい状況の中、販売促進を図るためには製品の威信を高める必要があると考え、当時最も信頼のあった大阪の三越百貨店に置いてもらう交渉を粘り強く続け、ついには三越の担当者が根負けして取扱いが認められました(利一氏は三越に初めてグリコが並んだ日(1922年2月11日)を創立記念日と定めた)。そして、三越の取扱いを機に取扱店は拡大していき、また風味袋(試食サンプル)も置き、実際に試食してもらう工夫もしました。

1927年には、日本発の食玩となる「おまけ付きグリコ」を発売して大ヒット商品となり、また1933年には酵母入りビスケットの「ビスコ」を発売して大ヒット商品となり、製菓会社として大きく成長していきました。しかしながら、第二次世界大戦が始まると戦争が暗い影を落とすようになり、1945年に大阪工場と東京工場が空襲により全焼し、終戦で国内外の工場や資産を失い、壊滅的な打撃を受けました。

戦後は焼け跡からの再出発となり、苦しい日々が続きましたが、60代の利一氏は会社を何とか立て直し、その後、製品面では様々なヒット商品を世に送り出しました。また、1960年代には、多角経営の失敗がありましたが、品目削減や機械化などの改革で乗り切りました。1973年に91歳で社長を退任(会長に就任)しても仕事を続け、一生涯、商売道に邁進しました。

10-19歳 1897年:家業に従事し、塩売りも始める
1901年:父の死で家業(薬種業)を継ぐ
20-29歳 1907年:初の大阪見物に行き、薬を安く仕入れる
(薬種業に従事するほか、日露戦争に応召)
30-39歳 1915年:葡萄酒業を始める
(成功して九州トップクラスになる)
1919年:牡蠣を鍋で煮ている現場に出くわす
(牡蠣の煮汁にグリコーゲンを確認)
1920年:牡蠣エキスの効果を確認する
(長男の病気が回復し、栄養菓子グリコを事業化)
40-49歳 1921年:江崎商店を設立
1922年:大阪三越百貨店でグリコを発売
1927年:豆玩具おもちゃを創案
50-59歳 1933年:ビスコを発売
1934年:グリコに社名変更
1935年:大阪ミナミにネオン塔を設置
60-69歳 1943年:江崎グリコに社名変更
1945年:空襲で工場が全焼するなど大打撃を受ける
1949年:グリコに社名を再変更
1951年:大阪工場と東京工場を再建
70-79歳 1956年:江崎グリコ栄食とグリコ協同乳業を設立
1958年:アーモンドチョコを発売、現社名に再変更
1960年:ワンタッチカレーを発売
1932年:プリッツ(ソーダスティック)を発売
80-89歳 1963年:グリココーンを発売
1966年:ポッキーチョコレートを発売
1969年:ヨーグルト健康を発売
1972年:プッチンプリンを発売
90歳- 1973年:91歳で社長を退任して会長に退く

江崎利一の人物像と言葉

江崎利一氏は、高等小学校で成績が非常に優秀でしたが、家庭の事情から進学は叶いませんでした。若くして家業に従事し、進学はできなかったものの、その後も旧制中学の講義録、商売に欠かせない広告や宣伝販売、薬業などについて独学で学び、働き次第、努力次第で学校出に負けない立派な商人になることができました(特に広告は資産と考えるなど、マーケティングに関しては先進的だった)。また、商売の精神については、近くに住んでいた篤学の士、楢村佐代吉先生から「事業即奉仕(商売というものは、世の中のためになるものでなければならない)」との教えを学びました。

90代まで商売を道楽と考え、「食品による国民の体位向上」の追求に生涯を捧げ、また経営哲学としては、2×2=4では当たり前で、さらに人一倍の努力と工夫をすれば、2×2=5にも6にもなると考え、これは今日のグリコ精神の根幹をなしています。なお、社会貢献面では、親と子の健康増進を目的に、1934年に私財を投じて「財団法人 母子健康協会」を設立しました。ちなみに、交友面では、一回り下の松下幸之助氏と意気投合し、生涯に渡って固い友情で結ばれており、利一氏が長男を亡くした時に幸之助氏が励ましたり、江崎グリコの重役になったり、また孫の勝久氏を松下で修行で預かるなどしました。

・商売は儲けたり儲けさせたりの仕事である。売ったり買ったり、便宜をはかったりはかってもらったり、儲けさせたりの相互利益こそ、商売の真髄であり、要諦であろう。

・儲けようと思ってやる商売には自ずから限度があると思っていい。あくまで社会の要求に沿うような奉仕の精神で打込めば、必ずその事業は大成するに違いない。私は商売人であることを大いに誇りとしているのである。

・商売というからには、誰でも一応は一生懸命やっている。それで当たり前、いわば2×2=4(ににんがし)である。大きな成功を収めるには、それだけでは足りない。考えて考え抜き、努力に努力を重ねて常識の壁を越え、誰もがやれないようなことをやってのけなければならない。「2×2=4」を「2×2=5(ににんがご)にも6」にもしなければならない。

・下から石を一つずつ積み上げて山頂に達するより、山頂から石を転がした方が早い。

・事業奉仕即幸福。事業を道楽化し、死ぬまで働き続け、学び続け、息が切れたら事業の墓場に眠る。

江崎利一の関わった「江崎グリコ」

江崎利一氏が一代で築いた「江崎グリコ」は、今日では、日本有数の総合食品メーカーとなっています。その始まりは菓子屋でなく栄養業であり、創業以来、「食品による国民の体位向上」を社是として企業活動を進め、創立70周年を迎えた1992年に、この精神を受け継ぎ、企業理念を「おいしさと健康」、またGlicoスピリットを「創る・楽しむ・わくわくさせる」としました。

現在、グリコグループは、ハート、ヘルス、ライフの3つを活動フィールドとし、菓子だけでなく、冷菓、加工食品、デザート、乳製品、乳幼児用粉ミルク、食品原料や化粧品原料にまで事業領域を広げています。

会社名 江崎グリコ株式会社〔EZAKI GLICO CO.,LTD.〕
創業者 江崎利一
創業 1921年2月11日
設立 1929年2月
事業内容 菓子、食品の製造および販売
企業理念 おいしさと健康
上場 東証1部

人物の生誕別区分