沖牙太郎(沖電気工業)

沖牙太郎(おききばたろう)氏は、日本で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した実業家で、明工舎(現:沖電気工業)の創業者(1848/5/10-1906/5/29)です。安芸国(広島県)出身で、幕末維新期は銀細工業に従事し、1874年に上京して工部省電信寮製機所に入所し、機械技術を学びました。そして、中核を担う技術者として活躍した後、1881年に同省を辞し、電機製造・販売を行う明工舎を創立しました。

創業当初は経済環境が非常に悪く、牙太郎氏が朝から晩まで営業(受注活動)に走り回って何とか経営危機を乗り切り、その後、時代の変化(軍備拡張や近代化)の中で受注が増大し、そして政府の電話拡張計画を事業大成のチャンスと捉え、日本国内において、電気通信メーカーの最大手としての地位を確立しました。

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沖牙太郎の基本情報

沖牙太郎氏は、1948年に安芸国沼田郡新庄村(現:広島県広島市西区新庄町)の大きな農家に生まれました。6人兄姉の末子で、小さい頃から農業が好きではなく、従兄弟の銀細工師について技術取得に励んだ後、広島で武具や馬具などの金具作りに没頭しているうちに世は明治に改まりました。

1874年(27歳の時)に、青雲の志を胸に牙太郎氏は上京を決意し、単身、東京へと旅立ちました。同郷の先輩で、当時、工部省電信寮の修技科長をしていた原田隆造氏の書生をした後、工部省電信寮(後に電信局)製機所に採用され、スイス人技師のルイス・シェーファーから機械技術を習得しました。1877年に雑役として入所してから2年4カ月で技手に昇進し、同僚と共に、電信機や電気針、電極器、避雷針、電鈴などの製造(国産化)に携わりました。

1876年に米国で発明された電話機は、翌年(1877年)に製機所に持ち込まれ、牙太郎氏ら技術者を大いに驚かせ、1878年には早くも模造しました。ちょうど新来の電話機模造に取り組んでいた頃、既に中核を担う技術者となっていた牙太郎氏は、数人の同僚と共に製機所内に「ヤルキ社」という研究グループを結成し、電機材料の国産化を図り、輸入品抑制に貢献したとして工部省から表彰されました(グループの中で牙太郎氏は紙製ダニエル電池と漆塗り線を開発)。

この成功(実績)が牙太郎氏に大きな自信を与えると共に、独立自営の野心を芽生えさせました。そして、1879年に電信局での仕事のかたわら、初代電信頭・石丸安世邸の長屋で電信局の下請け工場を始め、受託製品の製造や新製品の研究に携わり、近い将来への独立へと動き出しました。

生没 1848年5月10日-1906年5月29日(享年59歳)
出身 広島県広島市
就職 工部省電信寮製機所・・・1874年
起業 明工舎・・・1881年

沖牙太郎の事業年表

沖牙太郎氏は、1881年に東京・京橋新肴町に電機製造・販売を業とする「明工舎」を創立し、同僚や後輩など10数名が参加しました。当初は、電信機や電話機、医療機械など何でも手掛ける町工場でしたが、開業2カ月後に上野で開催された内国勧業博覧会に出品した「顕微音機(新式の電話機)」が明治天皇の目にとまり、有功二等賞を授与されて、その名を世に知らしめました。開業すぐに社名は広く知られましたが、当時は松方財政でデフレ不況に陥っており、牙太郎氏が朝から晩まで、官公庁や商店、大邸宅など営業に走り回って、何とか経営危機を乗り切りました。

1882年には軍用携帯印字機と軍用電池を陸軍に納入することになり、唯一の国産通信機器メーカーであった明工舎は、思いがけぬ大量受注となりました。その後、政府が打ち出した対清戦争を前提にした軍備拡張計画も相まって受注が増大したほか、時代の変化の中で、引き込み線や被覆電線の需要増大、電話・電鈴・避雷針等の施設工事の増大など、事業が拡大していきました(1889年に社名を「沖電機工場」と改称)。そして、1896年に国内通信網の整備という国家目標のもとにスタートした「第1次電話拡張7カ年計画」を事業大成のチャンスと捉え、15年間の技術的・資金的な蓄積を全て注ぎ込んで一大工場を稼働させ、電気通信メーカーの最大手としての地位を確立しました。

1899年に元逓信省電務局長の吉田正秀氏と沖電機工場の営業権を引き継いだ「合名会社沖商会」を設立しましたが翌年(1900年)に解散し、代わって「匿名組合沖商会」を組織しました。この改組では、牙太郎氏が会主、創業以来の功労者14人が正員とし、長年の協力に感謝するものとして、毎期の純益金の15%を正員に分配し、さらに15%を積立金として留保することにしました。また、同時に営業・生産も正員に権限移譲して、牙太郎氏は一線から身を引く形を取りました。これは、自分の体調(健康)が思わしくないこともありましたが、将来を考えての内部体制強化の狙いもありました。

20-29歳 1874年:工部省電信寮製機所に入所
1877年:技手に昇進
30-39歳 1878年:同僚らと電話機を模造
1879年:下請け工場を開始
1881年:明工舎を創立、顕微音機で受賞
1882年:携帯印字機と電池を陸軍に納入
1885年:ロンドン発明博覧会で銀牌を授与
40-49歳 1889年:沖電機工場と改称、本社工場を拡大
1890年:浅草・凄雲閣の電話設備を請け負う
1894年:新鋭工場を立ち上げる
1896年:国産初の直列複式交換機を納入
50-59歳 1899年:合名会社沖商会を設立
1900年:匿名組合沖商会に改組
1906年:病気で死去(59歳)

沖牙太郎の人物像

沖牙太郎氏は、明治という時代の変革期において、ベンチャースピリットともいうべき、先見性と挑戦心を持った人で、銀細工師から技術者、そして事業家へと駆け抜けました。情熱と誠実な人柄で従業員を大切にし、また浅草・凌雲閣で電話のデモンストレーションを行うなど、なかなかのアイディアマンでもありました。

50代半ばで病に伏して一線を退くことになりましたが、二十数年で電気通信メーカーの最大手としての地位を確立し、「国運発展の大勢に乗じて、自己の運命を開拓せん」という創業の志を十分に果たしました。

沖牙太郎の関わった「沖電気工業」

沖電気工業(OKI)は、1881年に創業者の沖牙太郎氏が日本で初めて電話機を製造し、日本最初の通信機器メーカーとして誕生しました。以来、100年を超える長い歴史を持ち、創業者から受け継ぐ、未知の領域に積極的にチャレンジするという「進取の精神」は、いつの時代も変わらず、同社に脈々と流れています。

現在、OKIは、世界有数の情報通信技術とメカトロニクス技術をベースに、業界をリードする確かな技術と信頼で、情報システムや通信システムなどの社会インフラの安全と安心を支えている「BtoBメーカー」となっています。

会社名 沖電気工業株式会社〔Oki Electric Industry Co., Ltd.〕
創業者 沖牙太郎
創業 1881年1月
設立 1949年11月1日
事業内容 電子通信・情報処理・ソフトウェアの製造・販売およびこれらに関するシステムの構築・ソリューションの提供、工事・保守およびその他サービスなど
企業理念 OKI's Spirit「進取の精神」
上場 東証1部

人物の生誕別区分