兼松房治郎(兼松)

兼松房治郎(かねまつふさじろう)氏は、東証一部に上場する、総合商社の兼松を創業した実業家(1845/6/25-1913/2/6)です。江戸時代の末期に大阪で生まれ、商家への奉公、武家への奉公を経て、青年期に商売で身を立てることを決意しました。明治維新前後は、商売で大儲けして破産するという若気の至りもありましたが、1873年に知り合いの伝手で三井組銀行部に入り、大阪商人の預金集めなどを通して台頭しました。

1881年に退職し、その後は、大阪を中心とした海運業界の活性化を図るべく「大阪商船(現:商船三井)」の創設に参加して取締役となったほか、1887年には「大阪日報(翌年に大阪毎日新聞に改称)」を買収しました(大阪商船は1887年に辞職、大阪毎日新聞は1889年に譲渡)。そして、以前から注目していたオーストラリアと日本との直接貿易を実現するために、1889年に「濠洲貿易兼松房治郎商店」を創業し、羊毛輸入などで日豪貿易のパイオニアとなり、今日の兼松の基盤を築きました。

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兼松房治郎の基本情報

兼松房治郎氏は、1845年に大坂・江之子島(現:大阪府大阪市西区)で父・廣間弥兵衛、母・八重のもとに生まれました(廣間房治郎が出生の姓名、兼松は後に養子に入った縁戚の姓)。幼少期に父が仕事上のトラブルから失踪し、その後、父の実家や母の実家、再婚先の家などで少年期を過ごしました。

11歳の時に母の再婚相手(義父)が病死し、再び貧しい母子の暮らしに戻ってしまったことから、当時の慣習に従って、丁稚奉公に出ることになりました。伏見の醤油味噌屋、京都の乾物問屋、京都の蝋燭屋、大阪の砂糖屋、大阪の米問屋などで一生懸命働き、中でも京都の乾物問屋の奉公は非常に過酷で、その時の手指の凍傷の痕は生涯治癒しませんでした。

16歳の時に最愛の母が病気で亡くなり、18歳の時に米問屋で大野新右衛門の世話をした縁で江戸に下り、岡部駿河守に仕えて武家奉公するうちに、その精勤が認められて御用部屋書役に抜擢され、講武所で銃術の訓練を受けるようになりました。そして、20歳の時には、フランス式調練を受けて歩兵指図役下役並見習になり、筑波で起こった天狗党の乱では小隊長格で参戦し、半年以上にわたって各地を転戦しました。

戦いが終わって江戸に戻り、自分の将来を改めて考えてみると、もはや武士の身分には魅力や執着を特に感じず、逆に商業への意欲がもだしがたく、1865年に江戸を後にして大阪へ帰りました。当時、第二次長州征伐が勃発し、幕府の経済拠点・大阪を圧迫するため、長州藩が関門海峡を封鎖したことで、日本海沿岸地方と大阪を結ぶ西回り航路がほとんど杜絶して物資の流れが止まっていました。それを絶好の商機と見た房治郎氏は、危険を全く顧みず、大量の酒を船に積んで長州に行き、品薄になっていた酒を売り捌いて大儲けしました。

酒の販売で大金を手にし、しばらく大阪近郊で安閑と時世を傍観した後、明治維新の成立を見てから横浜に出て、商館貿易で繊維や雑貨などの売り込み、次いで新開港地である兵庫と新潟で2年半、石炭や綿、砂糖、鉄などを輸入し、旧加賀藩などに売却して相当の資金を蓄えました。そして、再び横浜に戻って、当時、欧州で品薄になっていた蚕卵紙(たねがみ)の商館への売り込みで巨利を得ました。しかしながら、1870年に普仏戦争が勃発し、蚕卵紙相場があっという間に大暴落して、25歳で破産しました。

財産を失ったものの、房治郎氏は焦ることなく、「無理に挽回を計るのは愚の極みであり、今は新知識を学習して時機が来るのを待つべし」とそのまま横浜に留まり、宣教師バラー夫妻や外国語学校で英語などを学び、心機一転を図りました。そして、横浜を後にして大阪へ帰る途中、かつての伊勢の取引相手から売掛金150両を回収するという好運に恵まれ、いささか気を取り直して、1872年に大阪に戻りました。

生没 1845年6月25日-1913年2月6日(享年68歳)
出身 大阪府
就職 奉公(商家・武家)・・・10代
三井組銀行部(三井銀行)・・・28歳
起業 各種商売・・・20代前半
日濠貿易兼松房治郎商店・・・44歳

兼松房治郎の事業年表

兼松房治郎氏は、1873年(28歳の時)に大阪で職探しをしたり、米国行きを模索したりする中、ある日、神戸に向かう船中で、外国語学校の恩師の伊藤弥次郎先生に偶然出会い、その斡旋で三井組の関係者と面会し、非常勤職員(丁稚)並みの待遇で「三井組銀行部(1876年に三井銀行に改組)」に入社しました。当時、28歳という中年での丁稚扱いの入社でしたが、その勤務の熱心さから、3年後には正社員に抜粋されました。

周囲から嫉妬があったものの、それに臆することなく、さらに精勤して頭角を現し、大阪商人の預金集め、旧来の和式帳簿から新しい西洋式簿記への切り換え、地方出張での滞貸金の整理などで大きく貢献し、その有能さと骨身を惜しまない働きで重役の信頼は厚く、1876年には三井元之助氏の代理で関西経済の中枢機関である米商会所肝煎に就任したほか、翌1877年には関西経済界の重鎮である五代友厚氏が主唱した大阪商法会議所の設立委員に名を連ねるなど、公私共に生活は充実し、前途はまさに順風満帆で、輝かしい将来は約束されたも同然でした。

しかしながら、1881年(36歳の時)に大阪分店取締八等という役職で三井銀行を辞職し、その後は、大阪を中心とした海運業界の活性化を図るべく「大阪商船(現:商船三井)」の創設に参加して取締役運輸主管となりました(大阪商船は1887年に辞職)。また、1887年には「大阪日報(翌年に大阪毎日新聞に改称)」を買収し、主幹(社長)に就任しました。ちょうどその頃、オーストラリアに米が輸出され、羊毛は世界一の生産国で地下資源も豊富であることを知り、まだ日本人が手をつけていないオーストラリアと日本との直接貿易の可能性の調査を思い付き、新聞社経営を友人に託して、その年のうちにシドニー・メルボルンへ1人で旅立ちました(自分の新聞には、調査報告のような「濠洲通信」を掲載して情報提供)。

1889年(44歳の時)に房治郎氏は、不動産や株券などを処分して私財を投じると共に、財界人数名から出資を得て、無謀な冒険だという周囲の反対を押し切り、神戸に「日濠貿易兼松房治郎商店」を開業し、また翌年にはシドニーに支店を開設し、国情や習慣もよく分からず、信頼すべき知人もない中、牛脂・牛皮や羊毛を初めて日本へ積み出し、日豪直貿易の第一歩を踏み出しました(1889年に大阪毎日新聞は譲渡)。その後、日豪間の輸出入貿易は順調に進みましたが、1893年に豪州で恐慌、1901年に日本で恐慌が起こり、一時は倒産の危機まで追い込まれましたが、日豪貿易を断絶させることは何としても避けなければならないと奔走する房治郎氏の熱意が周囲を動かし、何とか乗り切りました。

そして、明治末期には、日本の独占的羊毛商として、輸入シェア65%と圧倒的に優位な一時代を謳歌し、今日の兼松の基盤を築き、また晩年は高所大局から経営を見守る立場に自らを置き、後進に未来を託しました。なお、房治郎氏は、自分の事業(貿易業)以外に、公益活動として、実業団体(神戸実業中立会)の設立や港湾設備(神戸港)の整備などでも、地元の有力者として広く貢献しました。

20-29歳 1873年:三井組銀行部大阪分店に入店
30-39歳 1876年:米商会所肝煎に就任
1881年:三井銀行を辞職
1884年:大阪商船会社を創立
40-49歳 1887年:大阪日報を買収、豪州を視察
1889年:豪州貿易兼松房治郎商店を創業
1890年:シドニー支店開設、日豪直貿易開始
1893年:豪州の恐慌で経営危機→回避
50-59歳 1900年:豪州小麦の輸入に着手
1901年:日本の恐慌で経営危機→回避
60-69歳 1905年:最後の渡豪

兼松房治郎の人物像と言葉

兼松房治郎氏は、青壮年の頃は、論争すると相手を屈服させるまで納得しない強情な性格であったと伝えられますが、経営者の円熟味を増すと共に、異なる意見にも耳を傾ける包容力や人心掌握の巧みさを身に付け、次第に重みを増す立場に合わせて人格を涵養していったそうです。そして、世間からは「温顔は春の如く、しかも浮世の辛酸はことごとく嘗め尽くして大悟した人」と評され、実際に接した人は、一様にその軽妙洒脱な人当たりや誠実な性格にひきつけられたそうです。

・わが国の福利を増進するの分子を播種栽培す(創業主意)

・お得意大明神(房治郎の口癖で取引先を大切にという精神)

・勤労貸勘定主義(房治郎氏は努力超過で働こうというのが信条)

・もうけは商売のカス(商売と言えども金儲けだけの追求ではいけないという悟りと信念、人生の知恵から生まれた言葉)

兼松房治郎の関わった「兼松」

兼松は、1889年当時、日本の貿易の90%以上が外国商館に独占されている中、創業者の兼松房治郎氏が「日本の国力振興の為には貿易の商権を我々日本人の手に取り戻さねばならぬ」との強い信念を持って、豪州との直接貿易の旗印を神戸で掲げて創業されました。そして、創業以来、100年超の歴史を有しますが、企業理念の中に創業主意「わが国の福利を増進するの分子を播種栽培す」が記され、今日でも同社の企業活動の原点となっています。

現在、兼松は老舗の総合商社ですが、今もなおフロンティアスピリッツが息づく事業創造集団であり、「電子・デバイス」、「食品」、「食糧」、「鉄鋼・素材・プラント」、「車両・航空」の主要5部門を軸に、世界と日本を繋げるワールドワイドなビジネスを展開しています。

会社名 兼松株式会社〔KANEMATSU CORPORATION〕
創業者 兼松房治郎
創業 1889年8月15日
事業内容 内外のネットワークと各事業分野で培ってきた専門性と、商取引・情報収集・市場開拓・事業開発・組成・リスクマネジメント・物流などの商社機能を有機的に結合して、多種多様な商品・サービスを提供する商社
上場 東証1部

人物の生誕別区分