河合小市(河合楽器製作所)

河合小市(かわいこいち)氏は、東証一部に上場する、世界的な楽器メーカーの河合楽器製作所を創業した実業家(1886/1/5-1955/10/5)です。静岡県出身で1897年(11歳の時)に山葉寅楠氏の山葉風琴製造所(現:ヤマハ)に入所し、ピアノやオルガンなど楽器の製造・開発に従事しました。天才肌の楽器製作技術者で「発明小市」と呼ばれ、ピアノのアクション(打弦機構)の開発、黒鍵を大量生産する工作機械の考案など大きく貢献し、1926年(退職時)には技術部門の最高責任者の技師長へと上りつめていました。

1927年(41歳の時)に小市氏を慕って集まった仲間と共に「河合楽器研究所」を設立し、ピアノやオルガンなどの製造を始め、業績は順調に拡大していきました。しかしながら、第二次世界大戦が勃発すると、技術者が戦地へ駆り出され、工場が軍需工場と化すなど苦難の時期を過ごしました。そして、戦後は工場を再建し、その苦難を何とか乗り越え、日本楽器と共に日本の二大楽器メーカーとして競い合いながら、質の高い楽器を生み出していきました。

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河合小市の基本情報

河合小市氏は、1886年(明治19年)に静岡県(浜松宿菅原町)で江戸時代から続く車大工「するがや」の家に生まれました。父・谷吉は腕に定評のある職人で、31歳の時に病死しましたが、浜松名物・凧の糸車を考案するなど発明の才にも恵まれ、それを受け継いだのか、小市氏は小さい頃から物事の仕組みや成り立ちに興味を持ち、また手先が器用でした。

小市氏の父親と知り合いで、山葉寅楠氏の親友・恩人である樋口林治郎氏が、目をかけていた小市氏の才能に注目して、寅楠氏に雇うように薦めたことをきっかけに、1897年(11歳の時)に小市氏は「山葉風琴製造所(1897:日本楽器製造、1987:ヤマハ)」に入所しました。最初の仕事は、工場の分業過程の全てを手助けすることでしたが、天性の勘の良さと器用さからすぐにマスターし、寅楠氏はすぐに小市氏の才能を見抜き、指導したり命題を与えたりして、小市氏は13歳で一人前の職人として扱われるまで成長しました。

山葉寅楠氏の進取の精神と指導によって小市氏の才能が磨かれ、また小市氏の物づくりへの探究心が寅楠氏が啓発されることも度々あり、この二人の切磋琢磨が日本の楽器製造の創生期に様々な輝かしい発明と技術革新をもたらしました。小市氏は、14歳の時にピアノ国産化の最大の課題だった「アクション(打弦機構)」を発明し、以降、オルガンの音をストップさせる「カップラー」、黒鍵を大量生産する工作機械、ハーモニカの弁の簡易取付機、卓上ピアノなどを考案・発明しました。

1907年、21歳の若さで小市氏はアクション部長となり、名実ともに山葉寅楠氏の片腕となって以降、寅楠氏は小市氏に絶大な信頼を寄せる一方、小市氏もその信頼に応え、会社の発展に大きく貢献しました。1916年に師でもあり、父とも慕った寅楠氏が死去した際には、30歳の小市氏は泣き通したそうです。その後、1921年に小市氏は海外の技術見聞のために視察旅行(米・英・仏・独・伊)に行き、パイプオルガンの素晴らしい音色に魅了され、帰国して直ぐに研究に取りかかりました。

1926年に大規模な労働争議が発生し、日本楽器製造は経営危機に陥り、会社の再建を巡って社長派と反社長派が対立し、寅楠氏の後を継いだ天野社長が辞任するのを機に、小市氏は7人の部下を連れて会社を去りました。なお、この時、小市氏は技術部門の最高責任者の技師長へと上りつめていました。

生没 1886年1月5日-1955年10月5日(享年69歳)
出身 静岡県
学歴 尋常小学校
就職 山葉風琴製造所(現:ヤマハ)・・・11歳
起業 河合楽器研究所・・・41歳

河合小市の事業年表

河合小市氏は、1927年(41歳の時)に小市氏を慕って集まった仲間と共に「河合楽器研究所」を設立し、ピアノの製造・販売を開始しました(1929年に「河合楽器製作所」と改称)。1928年にグランドピアノ、1930年にオルガン、1934年にハーモニカの製造を開始し、日本楽器製造時代から小市氏の名声を知る楽器販売所が次々と取引を希望して、業績は年々拡大していきました。

しかしながら、第二次世界大戦が勃発すると、技術者が戦地へ駆り出され、工場が軍需工場と化すなど苦難の時期を過ごしました(空襲で工場も焼失)。そして、戦後は工場を再建し、その苦難を何とか乗り越え、1948年にはピアノやオルガンの製造再開にこぎつけ、1950年には小市氏の頭の中に残っていた克明な設計図をもとに戦後初のグランドピアノが製作されました。

1953年に小市氏は、楽器業界初の藍綬褒章を受章し、河合楽器製作所が世間に認められるのも束の間、1955年に病気で逝去しました(享年69歳)。なお、1955年に娘婿で養子の河合滋氏が二代目社長となり、中興の祖として、その後、河合楽器製作所を世界的な楽器メーカーへと大きく成長させました。

10-19歳 1897年:山葉風琴製造所(後・日本楽器製造)に入社
1900年:アクション(打弦機構)を開発
1904年:カップラーを開発
20-29歳 1907年:アクション部長に昇進
30-39歳 1921年:欧米視察旅行
40-49歳 1926年:日本楽器製造を退社
1927年:河合楽器研究所を創設
1928年:グランドピアノ第一号完成
1929年:河合楽器製作所と改称
1930年:オルガンの製造開始
1934年:ハーモニカの製造開始
1935年:法人組織(合名会社)に改組
50-59歳 1946年:工場再建、ハーモニカの製造再開
1948年:ピアノやオルガンの製造再開
60-69歳 1951年:株式会社に改組
1953年:業界初の藍綬褒章を受章
1955年:病気で逝去

河合小市の人物像

河合小市氏は、ヤマハの創業者である山葉寅楠という稀有な技術系経営者の薫陶を受け、天性の才能を発揮した天才技術者でした。初期の頃は、自らの様々な発明品の設計図を、製図の知識も機器もなしに、鉛筆とモノ差しだけで精密に書き上げていました。また、一度しようと決心したことは、成就するまで挫折することがない強い精神の持ち主でした。

その本質は、発明家であり、エンジニアであり、物づくりに執念を燃やす職人であり、さらに音楽を精神で愛する音楽家でもあり、生涯を通じて、楽器づくりひと筋に心血を注いだことから「楽器王」とも呼ばれ、称賛されました。なお、小市氏は、父のように慕った恩師である山葉寅楠に対して、藍綬褒章を受章後に墓前に報告するなど、謝恩の心を生涯持ち続けたそうです。

河合小市の関わった「河合楽器製作所」

河合楽器製作所は、創業者の河合小市氏が掲げた「世界一のピアノをつくりたい」という夢が引き継がれている、世界的な鍵盤楽器メーカーです。現在、楽器づくりで培った技術をもとに塗装事業や金属加工事業、音響事業などの事業を展開しており、また音楽教室やスポーツ教室などの教育事業も全国展開し、社会の発展に大きく貢献しています。

会社名 株式会社河合楽器製作所
〔Kawai Musical Instruments Manufacturing Co., Ltd.〕
創業者 河合小市
創業 1927年8月9日
設立 1951年5月15日
事業内容 楽器の製造仕入並びに販売、音楽教室・体育教室の運営、金属加工品及び木工加工品の製造仕入並びに販売
上場 東証1部

人物の生誕別区分