浅野総一郎(浅野財閥)

浅野総一郎(あさのそういちろう)氏は、明冶から昭和初期に活躍した実業家で、浅野財閥の創設者(1848/4/13-1930/11/9)です。越中国(富山県)出身で、若い頃から様々な事業を手掛け、明治初頭に横浜市営瓦斯局で処分に困っていた廃物(コークス、コールタール)に着目し、再利用の売り込みに成功して巨利を得ました。

1876年(28歳の時)に出入り先の抄紙会社で渋沢栄一氏と出会い、その知遇を得て、1884年に官営深川セメント工場の払下げに成功し、これを母体に1898年に設立した浅野セメントを国内随一のセメントメーカーに発展させ、以降、炭鉱や造船、製鉄、電力、貿易などの事業へ多角的拡大を図りました。

一代で浅野財閥を築き上げ、1930年(昭和5年)に82歳で亡くなるまで「事業の鬼」として猛烈に働き続け、その事業面の功績から「セメント王」や「資源再生王」、「京浜工業地帯の生みの親(臨海工業地帯開発の父)」と呼ばれるなど、近代日本の発展に大きく貢献しました。

浅野総一郎の基本情報

浅野総一郎氏は、1848年に越中国射水郡藪田村(現:富山県氷見市)の豪農で医者を兼業する浅野泰順の長男として生まれました。少年時代から北国一の豪商(海運業者)の銭屋五兵衛に憧れ、15歳から商売を始めましたが、縮帷子(夏用着物)や醤油、稲抜き機械、産物会社など、手を出したもの全てがうまくいかず、ついには多額(三百両)の借金を抱え、東京へ逃れました。

上京した東京では、冷たい砂糖水を湯呑1杯1銭で売る「冷やっこい屋(水売り)」からスタートし、以降、竹の皮から薪炭、石炭へと事業を拡大し、1873年に横浜で薪炭・石炭販売店を開きました。そして、1875年にできた横浜市営瓦斯局で処分に困っていたコークスやコールタールの再利用(燃料や石炭酸として売込み)に成功し、大実業家としての道を歩み始めました。

なお、実業界で活動していく中で、渋沢栄一氏と安田善次郎氏と知己を得たことが大きな転機となっており、総一郎氏の事業家としての先見性や度胸、手腕などが見込まれ、長く協力者として多大な支援を受けました。

生没 1848年4月13日-1930年11月9日(享年82歳)
出身 富山県氷見市
起業 郷里で商売開始・・・15歳
著書 父の抱負(口述筆記)

浅野総一郎の事業年表

浅野総一郎氏は、長年の苦労の末、リサイクルビジネス(コークスやコールタールの転売)で横浜商界において名をなしました。当時、世の中が大きく変わる中、建築物の不燃化でセメントが建設資材の柱になることに一早く着目し、1884年に渋沢栄一氏らの助力により官営深川セメント工場の払下げに成功し、以降、生産設備の改善や増強、他社との合併などにより日本最大のセメント会社にし、また関連事業を手掛けるために複数の会社を設立しました。

1896年には永年の夢であった外国航路への進出を目指して「東洋汽船」を設立し、また航路選定や汽船購入などの商談や視察で欧米に渡航しました(東洋汽船は日本最初の太平洋定期航路を開設)。この渡航で、日本の港湾が欧米に比べて著しく立ち遅れていることを痛感し、旧態依然とした横浜港を何とかしなければならないと思い、東京~横浜間の遠浅な海岸に注目し、そこに大型船が着岸できる港湾機能を有する工業用地を造成する計画に取りかかりました。

港湾埋立(埋立地造成)は、民間がやるにしてはあまりに巨大な事業であったため、なかなか許可が下りず、安田が実地調査の上、投資の約束をし、1912年に安田善次郎氏や渋沢栄一氏らと共に「鶴見埋立組合」を設立して出願し、1913年に許可され着工しました。その後、埋立事業は、15年の年月を経て1928年に完成し、浅野セメントや浅野製鉄所、日本鋼管、旭硝子、日清製粉などが次々と進出し、京浜臨海工業地帯の中核となっていきました。

ちなみに、総一郎氏が一生涯に興した事業の数は100に迫り、またアスファルト舗装や公衆トイレなどは、明治から昭和初期にかけて日本に初めて導入されました。

※総一郎氏が関わった埋立地を走る鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)には、浅野駅、安善駅(安田善次郎)、大川駅(大川平三郎)、武蔵白石駅(白石元治郎)、扇町駅(浅野家の家紋)とあるように、浅野ゆかりの駅名が付けられている。

20-29歳 1872年:東京へ出奔、冷ややっこい屋を始める
1874年:事業を石炭専業に切り替える
1876年:出入り先の抄紙会社で渋沢栄一と出会う
30-39歳 1884年:官営深川セメント工場の払下げに成功する
40-49歳 1896年:東洋汽船を設立し、商談で欧米へ行く
50-59歳 1898年:浅野セメント合資会社を設立する
60-69歳 1913年:海面埋立事業の認可がおり着工する
1918年:浅野同族会社を設立する
1920年:浅野綜合中学校(現・浅野学園)を設立する
70歳- 1928年:海面埋立事業が完成する
1930年:欧米諸国を視察する、82歳で没す

浅野総一郎の人物像と言葉

浅野総一郎氏は、24歳で故郷を出奔するまで、何度も事業の失敗を繰り返しましたが、元来、商売のセンスはあり、時代のトレンドを見抜く鋭い目は持っていました(若きし頃は、幕末の混乱期で商売への風向きは悪かった)。また、不屈の実業家として知られ、「一日四時間以上寝ると人間はバカになる」がモットーで、82歳で亡くなるまで猛烈主義を貫き、毎日額に汗して働きました(総一郎氏の経営の要諦は現場主義)。

若い頃から情熱と野心を持って事業をする姿は多くの人を惹きつけ、郷里では有力者の山崎善次郎氏が「九転十起」の教えを授けると共に借財の整理などで支援し、また上京してからは生涯の恩人である渋沢栄一氏や資金の面倒を見る安田善次郎氏などと出会い、多大なる支援を受け、大実業家へと成長していきました。

・運は水の上を流れている。命がけで飛び込んでつかむ度胸と、その運を育てる努力がなければ我が身につかない。

・人は1日に3時間寝れば十分だ。貴重な時間を空しく睡眠に費やすのは惜しい。

・商売人はとくに約束を厳守することが必要である。時間を偽ったり、約束を破るような人はすぐ信用を失ってしまうのである。

浅野総一郎の関わった会社

浅野総一郎氏は、一代で「浅野財閥」を構築し、セメント製造業を中核に発展し、造船や製鉄、鉱山、電力、海運、埋立などの事業に進出し、1918年に持株会社として浅野同族会社を設立し、株式所有を通じて多方面に広がった傘下企業を統括しました(浅野セメントと日本鋼管が中核)。また、浅野財閥は産業中心であったため、金融面では特に安田財閥に負うところが大きかったです。

生涯を通じて、総一郎氏は事業欲が非常に強く、そのやり口は突進また突進であり、浅野財閥については「総一郎氏が事業欲に任せて八方に手を拡げ、大小とりどりの会社を設立しただけに一体としてのまとまりを欠く嫌いがあった」とも言われています。なお、第二次世界大戦後、浅野財閥は解体されたましたが、現在、その流れを組む企業は「芙蓉グループ」に属するものが多いです。

持株会社 浅野同族会社(後に浅野本社)
直系会社 浅野セメント(現・太平洋セメント)、浅野物産(消滅)、浅野カーリット(現・日本カーリット)、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)、東亜港湾工業(現・東亜建設工業)、関東運輸(現・日の出興業)、東洋汽船(消滅)他