山口武彦(アズビル)

山口武彦(やまぐちたけひこ)氏は、明治から昭和にかけて、日本の機械産業の発展に大きく貢献した実業家(1869/7/2-1962/7/11)です。若い頃に高橋是清氏(後の内閣総理大臣)や安田善次郎氏(安田財閥の創始者)に見いだされて欧米視察に行き、しばらく安田財閥の事業に携わった後、1906年に機械工具商社の「山武商会(現:アズビル)」を設立しました。その後、事業活動を拡大していく中で、酸素の需要増大に注目して「日本酸素(現:大陽日酸)」を1910年に設立し、また最新の精密機械を有効活用して精密加工を行う「日本精工」を1914年に設立しました。

現在、山口武彦氏が創業した三社は、100年の時を超えて大きく発展し、三社(アズビル、太陽日産、日本精工)とも東証一部に上場しており、武彦氏の先見性が伺われます。なお、武彦氏が一生涯に渡って関わったのはアズビルで、その理念(発想)は今日にも受け継がています。

山口武彦の基本情報

山口武彦氏は、1869年(明治2年)に鹿児島県に生まれました。山口家は元々、薩摩藩の上級武士の家柄でしたが、維新後に家禄を停止されたことで生活は苦しくなり、時代の変化で価値観が転換する中、立身出世するためには、東京で勉学する以外に道はないと考えるようになりました。

1884年(16歳の時)に上京し、農商務省に勤める義兄(奥清輔)の家に身を寄せ、家事を手伝いながら進学の準備を行い、1887年に機械工学を学ぶために、東京職工学校(現:東京工業大学)に入学しました。1891年に卒業し、義兄の親友で初代特許局長であった高橋是清氏の世話もあって農商務省に入り、特許局審査官補の職に就きました。そこでは、担当していた機械の審査を通じて、欧米先進国における機械工業の水準の高さを痛感し、機会があれば海外視察をして実情を知りたいという思いを抱くようになりました。

ある時、高橋是清氏が親交のあった安田善次郎氏から「釘を国産化するための勉強で先進国へ派遣する適任者を探している」と相談を持ちかけられ、その適任者として武彦氏が推薦されました。武彦氏は特許局を辞し、安田銀行に技師として入った後、1896年(27歳の時)に渡米し、クリーブランドで釘を作る機械の研究に没頭した後、欧州にも渡って先進国の工作機械の視察を行い、1897年に帰国しました。

帰国後は、安田財閥が設立した深川製釘所で製釘事業の立ち上げに従事しましたが、しばらくして材料の輸入が難しくなって一時閉鎖となり、安田善次郎氏の斡旋により、北海道の鉄道会社の管財課長や造船会社の総支配人を勤めました。北海道時代は失意に陥りがちな時を過ごしましたが、武彦氏は経営に携わったことで、単なる技術者としてではなく、事業家として独立したいという意志を強く持つようになりました。

生没 1869年7月2日-1962年7月11日(享年93歳)
出身 鹿児島県
学歴 東京職工学校(現:東京工業大学)
就職 農商務省・・・1891年
起業 山武商会・・・1906年
日本酸素・・・1910年
日本精工・・・1914年

山口武彦の事業年表

1906年に山口武彦氏は東京に戻り、事業家になるという夢を実現すべく、欧米機械工具直輸入の商社として「山武商会(現:アズビル)」を開店しました。日本の産業発展には先進国の優れた工作機械の輸入が必須であると確信し、欧米約50社の販売代理権を次々に取得し、また販路として海軍や民間企業などに得意先を広げ、事業を拡大しました。

機械の営業活動を行っていく中で、酸素によって鉄を溶接するという新技術を一早く知った武彦氏は、日本で初めてドイツから酸素溶接機を輸入し(ボンベで酸素も輸入)、また溶接に必要な酸素の国産化が必要と考え、1910年に酸素製造事業を行う「日本酸素合資会社(現:大陽日酸)」を設立しました。その後、酸素の需要については、工業用酸素だけではなく、医療用酸素の需要も急激に伸びたことから、合資会社のままでは無理と判断し、1918年に株式会社に改組しました。

大正の初め頃、山武商会は最新の工作機械を輸入したものの、まだ日本では性能の良い機械を使いこなす土壌が培われておらず、高性能・高能率なるが故に作業員を遊ばせる結果を招くなど持て余す格好になっていました。そこで、武彦氏は機械を有効活用するために、精密加工を行う会社の設立を決意し、1914年に「日本精工合資会社」を設立しました。当初は海軍向けの水雷ネジの製作からスタートし、その後、海軍の下請け工場として様々な部品を製作し、この間、試作研究を続けていた軸受がようやく国産化実現の水準に達したのを機に、1916年に「日本精工株式会社」を新たに設立しました。

山武商会は、開店以来、主にドイツからの機械輸入に頼っていましたが、第一次世界大戦の勃発を機に輸入が非常に難しくなりました。そこで、当時、新興工業国であったアメリカからの輸入を決意し、1917年に渡米して各地のメーカーを歴訪し、その成果として、1920年にブラウン社と日本総代理店契約を結び、計器類の輸入販売をスタートしました(後に「計器会社」として発展する礎となる)。大戦後は景気が急回復したものの、しばらくして不況となり、1923年には関東大震災が起こり、さらに1927年に金融恐慌、1929年にウォール街大暴落が発生するなど、不況で多くの企業が苦境に陥る中、同社も創業以来最大の難局に直面しました。

1928年に山武商会は難局にある中、武彦氏は将来必ず事業を発展させるという思いから、当時としては最新鋭の設備を誇った八重洲ビルに本社を移転すると共に、安田銀行の支援を得て個人商店から株式会社へ転換しました。これが幸いして、新たな融資や信用状の発行も行われるようになり、資金の回転も円滑化し、ようやく危機を脱しました。その後、ブラウン社商品の組み立てが安田銀行の了承を得た上で具体的に着手され(最初は本社で組み立て)、1933年に今後の需要増に対応するために大森に組立工場「山武商会計器製作所」を建設し、これにより工作機械輸入商から、工業機械および計器の製造販売を行うメーカーへと変身を遂げました。

20-29歳 1891年:農商務省に入り、特許局審査官補
1896年:安田氏の支援で渡米、欧州視察
30-39歳 1906年:山武商会を設立
40-49歳 1910年:日本酸素を設立
1914年:日本精工を設立
1917年:渡米して、各地のメーカーを歴訪
50-59歳 1920年:ブラウン社と日本総代理店契約を締結
60-69歳 1929年:世界恐慌で創業以来最大の危機に直面
1932年:ブラウン社の工業計器の組立を開始
1933年:大森に組立工場「山武商会計器製作所」を建設
70歳- 1939年:日本ブラウン計器を設立(後に山武計器に改称)
1942年:山武計器を吸収合併して「山武工業」が発足

山口武彦の人物像

山口武彦氏は、時代を見る目(先見性)や斬新な発想、優れた手腕を持った実業家でした。また、その誠実な性格から、若くして高橋是清氏(後の内閣総理大臣)や安田善次郎氏(安田財閥の創始者)に見いだされ、その後も長く信頼を獲得し、山武商会(現:アズビル)、日本酸素(現:大陽日酸)、日本精工の三社を創業する際に力になってもらえました。

その昔、武彦氏が掲げた、山武商会の経営理念は「人間の苦役からの解放」で、工場などでの単純な作業を機械に任せることで、人間はより創造性や生産性の高い作業に集中できるとの考えを表しており、とても先進的でした(現在のアズビルの経営理念は「人を中心としたオートメーション」)。なお、アズビルでは、2013年に神奈川県藤沢市の藤沢テクノセンター内に、歴史記念館として「山武記念館」を開設しました。

山口武彦の関わった会社

山口武彦氏は、現在、東証一部に上場している、アズビル、大陽日酸、日本精工の三社を創業しましたが、一生涯に渡って関わったのは、アズビルでした。一世紀を超えるアズビルの歴史の中で、1906年に「山武商会」として設立されて以降、機械工具商社からメーカーへの転身を経て、今日では、「計測と制御」の技術をもとに、ビルや工場、プラントなどの自動化を実現し、社会に貢献する「総合オートメーションメーカー」となっています。

会社名 アズビル株式会社〔Azbil Corporation〕
創業者 山口武彦
創業 1906年12月1日
設立 1949年8月22日
事業内容 ビルディングオートメーション事業
アドバンスオートメーション事業
ライフオートメーション事業
基本理念 人を中心としたオートメーション
上場 東証1部