森永太一郎(森永製菓)

森永太一郎(もりながたいちろう)氏は、「キャラメル王」や「製菓王」とも称され、東証一部に上場する、大手製菓会社の森永製菓を創業した実業家(1865/8/8-1937/1/24)です。24歳の時に陶器(九谷焼)販売を目的に渡米し、偶然出会ったキャンディをきっかけに洋菓子職人となることを決意し、足かけ12年にわたる米国での修業を経て、1899年に東京に「森永西洋菓子製造所」を開きました。

当初は、日本で洋菓子文化がない中、販売に苦労しましたが、少しずつ評判を呼んで販売が拡大し、1905年に松崎半三郎氏をパートナーに迎え、本格的な事業展開をしていきました。そして、二人三脚で製菓事業の近代化を目指し、菓子製造の機械化に取り組んで、質の高い菓子を大量生産することに成功しました。また、販売網を組織化し、先駆的な広告や独創的な販売促進策などを打ちながら事業規模を拡大し、大手製菓会社へと成長させました。

森永太一郎の基本情報

森永太一郎氏は、1865年に肥前国伊万里(現:佐賀県伊万里市)で陶器問屋の家に生まれました。森永家は代々伊万里焼の問屋を営み、祖父の代には大いに栄えましたが、父の代には家勢が衰え、6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、1年後に母は再婚しました。嫁ぎ先の事情で母とは暮らせなかったため、祖母の家や親戚の家を転々とすることになり、厳しい幼少時代を過ごしました(貧しくて学校にも通えなかった)。

12歳の時に親戚の斡旋と川久保雄平(漢学者)の篤志により、川久保が経営する書籍・文具の「盛観堂」の丁稚をするかたわら、手習いの指導を受けました。その後、父方の伯父である山崎文左衛門が営む陶器問屋で仕事を手伝うことになり、この時、「正当な商品だけを扱う。目先の利益につられて粗末な品を商わない。自分が正当と思った価格は絶対に下げない。仕事を急がず、10年を一区切りとしてやる」など、商人の心構えを教え込まれました(伯父の元では、天秤棒をかついで蒟蒻や野菜などの行商も行った)。

15歳の時に伊万里焼の大問屋である「堀七商店」に奉公に出て、順調に仕事を覚え、18歳の時に伊万里焼の商人が出資する横浜にある陶器貿易商の「有田屋」に勤めることになりました。しかしながら、松方デフレで深刻な不況となって有田屋が倒産し、「道谷商店」を経て「綿平商店」に勤務しました。その後、道谷商店の倒産寸前の危機に際し、世話になった恩人である主人を助けたいと思い、道谷商店の在庫品(九谷焼)と綿平商店の品物数千円相当と共に、九谷焼を米国で売って儲けるという大志を抱いて、単身、24歳で渡米しました。

渡米したものの、太一郎氏の大志に反し、九谷焼は全く売れず、落胆してオークションで全て売り払ってしまいました。多額の借金が残り、帰国するお金もなく失意に沈んでいたある日、公園のベンチに座っていたところ、一人の老婦人が隣に座り、キャンディを差し出されました。それを口にして、あまりの美味いさに驚愕し、洋菓子職人になろうというアイデアが閃きました。しかしながら、当時、米国では人種差別が激しく、菓子メーカーで雇ってくれるところは皆無で、皿洗いやスクールボーイ(住込みの家事職)などで何とかしのぎました。

米国で職を転々とする苦しい生活が続いた中、スクールボーイとして滞在した家で、信心深いキリスト教徒であった老夫婦に良くしてもらい、その愛に触れ、近くの教会で洗礼を受けてキリスト教徒になりました。キリスト教への熱狂は、洋菓子職人になる夢を忘れさせるほど強烈で、1890年に一時帰国して布教活動をしましたが、叔父の山崎文左衛門に論され、「まだ人を救う資格はない」と悟り、再度、洋菓子修行のために渡米しました。そして、今度は、必死の思いが通じたのか、パン屋やケーキ屋、キャンディ工場などで働くことができ、洋菓子造りの技術(製造手法)を取得して、1889年に帰国しました。

生没 1865年8月8日-1937年1月24日(享年71歳)
出身 佐賀県伊万里市
就職 堀七商店(陶器問屋)・・・1879年
起業 森永西洋菓子製造所・・・1899年
盟友 松崎半三郎

森永太一郎の事業年表

森永太一郎氏は、1899年8月(34歳の時)に東京市赤坂区溜池町(現:東京都港区虎ノ門付近)に2坪の「森永西洋菓子製造所」を開きました。最初はマシュマロから作り始め、次にキャラメルも作りましたが、なかなか売れませんでした(最初の注文が取れたのは、2カ月後のこと)。

開店当初、懸命な売り込みにもかかわらず、どこの菓子屋も和菓子が専門で西洋菓子には冷淡でしたが、太一郎氏は西洋菓子の美味しさを伝えるために「実物見本箱車」を引き歩いて宣伝・販売しました。そして、この年の12月に有名菓子屋の木村屋と風月堂が洋菓子を輸入して売り出し、それが東京市民の間で話題になり始めたのを機に、洋菓子を製造している森永西洋菓子製造所も注目され、注文が増えていきました。

1900年4月には業容拡大で、米国大使館通りに面した溜池の表通りに移転し、従業員も増やしました。移転後は、近くの米国駐日公使夫人の愛顧を受け、その口コミなどから在日外国人社会や上流日本人社会にも受け入れられるようになり、年末には宮内庁に納入するなど、信用や知名度を高めていきました。

開店して3年後には、東京の菓子屋で森永の名を知らない人はいないと言う程に成長しましたが、一方で製菓業を近代的な産業にするという壮大な夢を実現するには、助けてくれる有能なパートナーが必要だと思うようになりました。そういった中で、取引を通じて知り合った貿易商社を営む、9歳下の松崎半三郎氏に目をつけ、何度か断られた後、太一郎氏の夢と情熱に打たれ、1905年(創業から6年目)に半三郎氏が入社しました。

松崎半三郎氏が入社した後は、太一郎氏が製造、半三郎氏が営業や経理などを担当し、二人三脚で製菓事業の近代化を目指し、菓子製造の機械化に取り組んで、質の高い菓子を大量生産することに成功しました。さらに販売網を組織化し、先駆的な広告や独創的な販売促進キャンペーンなどを打ちながら事業規模を拡大し、大手製菓会社へと成長させました。また、商品面では、1914年に発売した紙サック入りミルクキャラメルの大ヒットに始まり、その後、チョコレートやビスケットなど、今に続くロングセラー商品を生み出しました。

1935年に太一郎氏は松崎半三郎氏に社長を託し、半三郎氏は戦後の1946年まで社長を務め、後々、二人のパートナーシップは「森永の松崎か、松崎の森永か。森永は二人にして一人である」と言われたそうです。

30-39歳 1899年:「森永西洋菓子製造所」を創業
40-49歳 1905年:森永太一郎氏を招聘
1910年:「株式会社森永商店」に改組
1912年:「森永製菓株式会社」に改称
1914年:紙サック入りミルクキャラメルを発売
50-59歳 1918年:国産ミルクチョコレートを発売
1919年:日本初の飲用ココアを発売
1920年:ドライミルクを製造開始、翌年発売
1923年:マリービスケットを発売
60-69歳 1930年:赤ちゃん専用の離乳ビスケットを発売
1935年:社長を退任

森永太一郎の人物像

森永太一郎氏は、明治から昭和という激動の時代の中、終始一貫して、製菓業に専心した職人・経営者であったと同時に、キリスト教の信仰者(クリスチャン)でもありました。強い精神の持ち主で、持ち前の根性と努力で何度も困難を乗り越え、また伯父から教わった商人道とキリスト教の倫理がベースにありました。

なお、社長を退いた晩年は、もう一つの夢だったキリスト教の伝道活動を精力的に行い、1937年に71歳で波乱万丈な生涯に幕を閉じました。

森永太一郎の関わった「森永製菓」

森永製菓は、1899年に森永太一郎氏が「日本の人々に栄養価のあるおいしい西洋菓子を届けたい」という夢を抱いて創業して以来、西洋菓子づくりのパイオニアとして、100年超の歴史を誇る、大手製菓会社になっています。

現在、菓子・食品・冷菓・健康・海外の5つの事業を柱とし、少子高齢化社会に呼応した健康分野や成長分野である海外事業の拡大、さらに従来の枠を超えた新市場・新領域開拓にも取り組んでいます。また、創業以来の企業理念「おいしく、たのしく、すこやかに」を掲げ、パワーブランドカンパニーとして「世界のこどもたちに貢献できる企業」を目指しています。

会社名 森永製菓株式会社〔MORINAGA&CO.,LTD.〕
創業者 森永太一郎
創業 1899年8月15日
設立 1910年2月23日
事業内容 菓子(キャラメル・ビスケット・チョコレート等)、食品(ココア・ケーキミックス等)、冷菓(アイスクリーム等)、健康(ゼリー飲料等)の製造、仕入れ及び販売
基本理念 おいしく、たのしく、すこやかに
上場 東証1部